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20代後半ある役所の住民台帳電子化の入札に参加した。部外者だったけど"もしかしたらお鉢が回ってきそう"と思ったから資料作りから参加した。このとき他に2社が来ていたと記憶、他社はこの作業の経験があっての参加、当方は無謀にも全く経験が無いのにである。
当然ながらプレゼンで質問された、
「他での経験はありますか?ないんですか」と半ば呆れ顔で。
だけどさぁ"最初はどこだって経験ないでしょうが?遠い群馬の企業より地元企業を税金で育てなさいよ"といいたかったけどあっさりOUT。
秦野の企業から給与計算の依頼がきた。パッケージでなく最初から作ることになった。
「君は給与計算の経験はあるのかな」またかよ、ムッとして、
「経験がなくてもどうにかするのがSEでしょ」とつっかかった。と、あっさり
「じゃ君に任せる、助け船は私がするから」と、この方はもう亡くなってしまったけど本当に感謝している。
さてこの給与計算だけど実に面倒くさい、大体が税金とか厚生年金だとか資料も作る必要があるし、また毎年のように変更があるのには負ける。
面白かったのは「金種表」それぞれのお金の種類ごとに枚数を出す。当時まだ振り込みはメインじゃなかったんですね。これぞ計算機の便利なところといえる。
理不尽というか無駄と思ったのは「源泉徴収票の紙提出」電子データでOKになるにはさらに20年以上かかることになる。
SEの経験とはなんなのか、結局のところ思考する深さと広さの鍛錬度なのかな。数を経験していくと基本思想をどこに置くかで作り方が変ってしまうことが分かってくる。現在のJRが時刻管理から順番管理に変えたことでシステムが半分以下になったと聞く。
それにしても開発原語からハードから、よくもまぁという感じで変ってきた。 開発原語の知識だけで生きていくのは無理、使い捨てられる。後でパッケージ・ソフトの部隊を見ることになったが、逆にこの部隊は技術進歩が止まってしまう危険を感じた。
派遣は最初から使い捨てというより人買い、送り出す方もそう思ってる会社を見た。SEが育ちにくい国になってしまった気がする。
入社して2年目あたりからずーと公私共に付き合ってくれたF氏。別の会社なのに同じ仕事を組んでやることが多かった。年齢は同じだけど酒は飲めねーし、カミさんいねーし、飲み屋といってもコーヒーのある店なんてそうはない。必ず割り勘にすると文句言いながらもまた付き合う。
打合せなしにお客様の前で二人突然ケンカ口論を始めたりする、とお客はなだめに入り、仕方なしに妥協したり中間策で依頼したり。勿論それを引き出すためのアブない手法なんだけど彼とはそんなワザが出来た。終わって喫茶店に入りニコニコしてたら同席してた後輩は????んな顔してたっけ。
彼とは益子焼にも2度一緒に行った。彼は高いものも平気で買う、
「こういうものは使わなきゃ」という。
このとき買ったもののうち1つをおふくろさんが使ってて割ったらしいが、それでも残念がってた。
そのとき真似して買ったものがこのお皿”何を盛るの?”よく言われたっけ。
その彼が40歳を超えて大阪に転勤となった。もともと京都好きな彼は喜んで行ってしまった。休みには仏像を散策、清水焼を買いあさるなど「最高な大阪生活よ!」と。
なのに48歳、夏休み実家に戻り大阪に向かうはずが、、脳梗塞で倒れた。以来一度も復帰せぬまま還暦を迎えてしまった。
普通に話せるようになってから残念がってたことがある。
「お袋と妹とが大阪の荷物を整理に行ってさ、いらない本ばっか送って大事な清水焼きを捨ててきてしまった!あのコーヒー茶碗がおしい!」
「値札付けとけばよかったのに」(笑)
30代前半に3人の合金に熱き思いに満ちた方にお会いした。
一人は柔道五段、一見豪快そのもの、警察官は教え子だから外で飲んで帰れなくなるとパトカーが家まで送ってくれたりする。これをカミさんが嫌がってたと。私は上司から今後の希望を聞かれ”今欠けてる40代の人に来て欲しい”と、でこの方が営業部長としてきた。私はこの人を理解するのに相当の時間がかかってしまった。
「昨日さぁ、ダンナがこの会社で亡くなったんだけど、息子の非行のことで相談したいって言うから行ってさ、息子を位牌の前まで引きずってぶん殴ってきた”親父が泣いてる”ってさ」・・・・・なんという人だろう。
「君は面白い、オレがいろんな人に引き合せてやるから」と、、、意味があったなぁ。
残念だけど、、、43歳直腸がんで亡くなった、、、。
一人は吉祥寺の方、合金溶解の様を熱く語った。よく情報をくれてその後情報処理の勉強をしてとうとうオフコンの営業企画の分野に来てしまった。ディラーの販売教育とかその帰りに私の家に寄って資料をくれたり、「こざさ」の最中を持ってきたこともあった。付かず離れずの距離感を持って接してくれて和ませてくれた。定年後3年ほどして弟殿から亡くなったとの通知が届いた、、、。
一人は前2者の上司の方、中野から通勤してて一緒の電車になった。ある日の朝のこと大雪で八王子止まり、降りて喫茶店に入った。
「あなたのことは聞いてますよ」と、エッん?
「思いが相手に伝わらない、、、自分が下手だと思うことですよ」そんなぁ、、、
実に優しく接してくれ、一度飲みに行くことを約束、しばらくして飲みにいった。
それから15年後、この方は合金部を分離して設立した子会社の専務なってた。経緯はさておきこの会社のシステム開発に入り込めとの上司命令!こっちはその気はさらさらなく、でも連絡せねば、、、。
「○○です、お会いして15年になりますが」無理だよなぁ、、、
「ハイ、○さおさん?お久しぶり」あぁ、負けた、何で下の名前がすらすら出てくるの?
「で?仕事やらせろってこと?」アリァばればれ、
「いいえ、その彼なら私が知ってるSEです、大丈夫です」と、ひやひや。
・・・・・・・58歳で他界した、、、私そのとき51歳、空しくなった、、、。
この3人の方は大なり小なり私に影響を与えてくれた大切な出会いの合金マンでした。
ソフト開発といっても相手のコンピュータに汎用機、オフコン(死語かな?)パソコン、制御専用機、マイコン・・・・、使う言語もFortran、COBOL(まだまだ生きてる)、BASIC、PL1、C、・・・・切りがない。
日進月歩の技術に経済産業省は資格付与の為に試験をしている。
・プロジェクトマネージャ試験
・データベーススペシャリスト試験
・エンベデッドシステムスペシャリスト試験
・情報セキュリティスペシャリスト試験
・システム監査技術者試験
・応用情報技術者試験
・基本情報技術者試験
・ITパスポート試験
・初級システムアドミニストレータ試験
何のことか分かりますか?この資格持ってなくて活躍してる人たくさんいます。他に日商PC検定1級~なるものもある、、、力を試す意味はあるけどなぁ、、、、。
大きな地主の会社のシステム開発を担当する。このとき入社したばかりの新人を打合せに同席させることにした。客先からは、
「無理でしょう、かわいそうだよ、狙いは?」
本人も悲鳴のように、
「理解できません!」
「でもかまわないから」と、懲りずに常に同席、飲み会にも同席、、、
ある程度大きな開発では完成後も運用保守が必要となる。開発で中心となった者に保守チーフをしてもらったが、それから5年後にはあの新人がチーフになってた。客先から、
「これが狙いだったんですね」
こんな形にうまくいくとは限らない。簡単にSEというけど経験と勉強なくして育たない。技術者の時間貸しでSEが育つとは思えない。
どうもCPUファンがスムーズに回っていない、コレも交換したいな、、、なかなか外れない、ツメを外してやっと取れた!と思ったらCPUが同時にくっついてきてしまった、アリャリャ!・・・・いいやどうせ限界だったのだろうと決めてCPUも交換しよう・・・・東府中までママチャリで・・・新品はー無い!じゃ中古は・・・あったしかも1個だけ!エッ!安い!コレに決めたっと。
というわけで無事元通りに使えるマシンになりました。このPCを作った頃はCPUが3万円ほどかかったと記憶しているその上のCPUが5万円で手が出なかった。今度は同じものが2,470.-とはねー。
ずーっとせめてノートPCを買わざるを得ないのかとやきもきしていた。といってWin-Vidtaにする気は無かった。だってもうすぐ次がでるって言うし、メーカーの戦略には乗る気がしない。