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最近は弁当持参でバイトをしている。これが美味い、作ってくれているカミさんには感謝している。
小学校のころいつも気になっていた隣の席の町中から通う女の子の弁当、黒っぽくて丸くて得体の知れないものがよく入ってた。こちらは玉子焼きに梅干、時々ふりかけ、のり程度だけどあの黒いものが何なのか聞く勇気もなかった。それが”肉団子”だと知ったのは二十歳を過ぎてからのように思う。農家に育った私には食事のメニューが数えるほどしかない。もし学生時代クラブに入ってなかったらきっと品数は増えていなかったことだろう。
同期でCEとして入社したH君18歳、ある日先輩方と5人で相模原の「清水家」に夕食を食べに行った。”カツライス””生姜焼き””餃子ライス”・・・・・・彼は”ポテトサラダとライス”。料理が出てきた・・・・ん?彼はなんと!”生姜焼き”を食べ始めていたんです!
「ちょっと!おめえはなに頼んだんだよ!」
「ポテトサラダだよ、ここにあるもん」確かにポテトサラダが添えられているけどなぁ、、?、、
被害者はその場の最年長者で、なんともあきれて笑うしかなく”ポテトサラダ”を食べていた優しい先輩でした。
可笑しかったけど私には笑えなかった。きっと彼の家庭には私と同じようにメニューが少なかったのだと思う。
私の家庭はカミさんの料理メニューが豊富で私の好みにも合ってる。そこで育った子供たちはお店に行くことが極端に少なかったと思う。おかげか彼らは妙に味のこだわりがある。
そんな息子からのお勧めのこだわりのラーメン店にカミさんと行った。国分寺街道、明星大学近く「豚麺」確かに美味いですねぇ。
私は本当の贅沢は作りたて新米のごはんが最高のご馳走だと思っている。なーんにもいらないごはんだけで感激する経験は教えたくないですねぇ。
30代前半に3人の合金に熱き思いに満ちた方にお会いした。
一人は柔道五段、一見豪快そのもの、警察官は教え子だから外で飲んで帰れなくなるとパトカーが家まで送ってくれたりする。これをカミさんが嫌がってたと。私は上司から今後の希望を聞かれ”今欠けてる40代の人に来て欲しい”と、でこの方が営業部長としてきた。私はこの人を理解するのに相当の時間がかかってしまった。
「昨日さぁ、ダンナがこの会社で亡くなったんだけど、息子の非行のことで相談したいって言うから行ってさ、息子を位牌の前まで引きずってぶん殴ってきた”親父が泣いてる”ってさ」・・・・・なんという人だろう。
「君は面白い、オレがいろんな人に引き合せてやるから」と、、、意味があったなぁ。
残念だけど、、、43歳直腸がんで亡くなった、、、。
一人は吉祥寺の方、合金溶解の様を熱く語った。よく情報をくれてその後情報処理の勉強をしてとうとうオフコンの営業企画の分野に来てしまった。ディラーの販売教育とかその帰りに私の家に寄って資料をくれたり、「こざさ」の最中を持ってきたこともあった。付かず離れずの距離感を持って接してくれて和ませてくれた。定年後3年ほどして弟殿から亡くなったとの通知が届いた、、、。
一人は前2者の上司の方、中野から通勤してて一緒の電車になった。ある日の朝のこと大雪で八王子止まり、降りて喫茶店に入った。
「あなたのことは聞いてますよ」と、エッん?
「思いが相手に伝わらない、、、自分が下手だと思うことですよ」そんなぁ、、、
実に優しく接してくれ、一度飲みに行くことを約束、しばらくして飲みにいった。
それから15年後、この方は合金部を分離して設立した子会社の専務なってた。経緯はさておきこの会社のシステム開発に入り込めとの上司命令!こっちはその気はさらさらなく、でも連絡せねば、、、。
「○○です、お会いして15年になりますが」無理だよなぁ、、、
「ハイ、○さおさん?お久しぶり」あぁ、負けた、何で下の名前がすらすら出てくるの?
「で?仕事やらせろってこと?」アリァばればれ、
「いいえ、その彼なら私が知ってるSEです、大丈夫です」と、ひやひや。
・・・・・・・58歳で他界した、、、私そのとき51歳、空しくなった、、、。
この3人の方は大なり小なり私に影響を与えてくれた大切な出会いの合金マンでした。
親族の似たような系列から言うと、顔・頭の形から全員禿頭である。
若いときは6・4に分け、それが7・3になり、8・2に、でも9・1だけはやりたくなかったなぁ。理髪店に行くと必ず、
「勿体ないです、せっかく伸びたのですから切らないでおきましょう」といわれる。おかげで直接、”バーコード頭”といわれたこともある。
スポーツは観戦よりもやりたい派、草野球、バトミントン、卓球、アーチェリー、テニスなどなど、このテニスとき8・2の”2”がバラッとなって邪魔だしまぁ格好悪い!。密かに”50歳になったらバッサリ!”と決めていたのに48歳で決行することにした!
「勿体ないです、せっかく伸び・・・・・・」でも、
「気持ちよくバッサリいってください」次の日会社に行くと
「全然いいです」「若く見えます」などと絶賛だった。
そんなことを思い出す方(52歳)とお話しする機会があった。単刀直入に、
「いつからその髪型にしたの?」と、面食らってましたが、
「エッ!、、今年の2月です」困惑顔して、
「誰かに言われて?自分から?」ますます困惑、
「実はカミさんに言われてなんです」その後どうだったか聞くと、
「カミさんはいいと言ってくれたけど会社では無視されました」
で、おもむろに私のことを話した。
「エェ!じゃ今おいくつ?せいぜい2つ上と思ってました」(ハハハ)
若いときから禿げていると年齢不詳に見えたりしておかしい。私は30代前半でバイトメンバーの女子大生に54歳と言われ、40代には60歳と言われる。48歳からは若く言われることが多くなった。だけどいつも正しく見て間違わない人たちがいる。飲み屋、スナックのママさんたちです。
「私たちは頭は見ないの、顔の肌つや、話し方、飲み方、接し方などよ、間違えることなんてないわよ」ハイ、恐れ入りました。(笑)
今の地に家を新築したのは昭和の終わりの12月だった。かなり運良く金運に恵まれてのことだった。このとき祝いに長兄から厳重に包装された”壷”が届いた。
「本当に困ったら手放していいから」と、?。
「作者は相当有名な人、もう亡くなって10年だからその内価値が出るから」
まだ持っているって事はまだまだ最悪の窮地ではないのかもしれない(笑)。
この長兄とは何度も益子に出かけた。田舎の家から車で20分ほどのところにある。仕事仲間とも2度ほど行き、そのうち自己流に良い物と普通という区分けが出来てしまった。お店の人に聞くと「市」のときより普段の日に来なさいと言われた。理由をここでは書けないけど、言えるのは”良い物”が手に入ります。
さらに10年ほどして、田舎に行った折り長兄と益子に行くことになった。
”これは良い”とか”これは要らない”なんて言ってたら、
「よし、じゃ良いというものの値段が当ったら買ってやる」
「じゃこれ1万5千円!」見事勝ち取ったりー!
「でもこれ大きすぎて使い切れないから半分の方でいいや」 →8千円。
「それじゃ2枚買ってやる」→アリャ割高よ!いいのかなぁ、、。(36cm×11cm)
益子焼、もともと生活用品、ボテッとしていて黒・茶の独特の模様。これを少しでも薄く、少しでも白くする努力しているように感じる。長方形の器は焼くと歪むそうで、これを歪まないように工夫してるそうです。
それとお店の人に言われたこと、
「まぁ飾る人もいるけど使った方がいいよ、玄関に飾ってあったもので料理を出し、また飾れればいいのよ」
このお店は家に近く、21年前に引っ越したとき前後2回ほど食べて以来ご無沙汰してます。この機に一度食べに行かねばいけねーなと思ってます。
国分寺というところはTVでもよく紹介されますが、それ以外に隠れた麺類の評判のお店が多いんです。
蕎麦では「ふるさと」本夛5丁目にどう見ても民家で通り過ぎてしまうお店、十割蕎麦がなんとも凄い。これを昼に食べると夕飯が食べられないほど胃に残る。
このお店、なんといっても美味しくて量が多いこと、小、普通、大もりとあるがどう見ても「小」が普通なんです。「大」は3人前と思っていいですね。
それとこの古い「看板」が店中にわんさかと飾ってあるのが凄い。まぁ年寄りを楽しませてくれますね。
ラーメンは激戦区といっていいですねぇー1ヶ月で退散ってしょっちゅうあります。